《心の回復過程の経験談Vol.5》(元)アダルトチルドレン・機能不全家族育ちが親を亡くすということ

こんにちは
名古屋で活動中。水野まこです。

リトリーブサイコセラピーという心理療法を使って
生きづらさの原因を探り、自分らしさを取り戻すお手伝いをしています。

という自己紹介を使ってきましたが、最近ではめっきり活動が停滞中です。
このブログも前回の更新が一年前。

それでも毎日、わずかな数ですが記事を覗いてくださる方がいまして、
少しでも参考になる話を発信できていたら幸いであります。

さて今回は、テーマにもあるように、親との別れについて話したいと思います。

今年(2021年)の4月に実父を亡くしました。
84歳という高齢でしたし、癌であったため、私自身にも前もって、ある程度の別れの覚悟ができてもいました。

親を亡くすことは、誰でも経験することで、特別なことではありません。
ましてや私の場合、親と別れの時期や理由も、不幸と呼ぶものではなく、比較してしまえば恵まれた方だと思います。

ただそれでも、私と父との時間、思い、様々なものが、当人には大きくのしかかってきます。

私にとって父は、ずっと遠い存在でした。
その父と最期の時間に、どう向き合って過ごしたのか、何を得たのか、話していきたいと思います。

そして後続の記事になりますが、
父が亡くなったことで、私の心の問題で見えてきた真実についても、話したいと思います。

私自身まだ、父との繋がりで解決できていない感情もありますが、自分の気持ちを癒す意図も込めて、記事を書いております。

私事の話ばかりになってしまうかもしれませんが、なるべく心理的な考え方も示したいと思います。

今までの記事でも触れてきましたが、私の育った環境は機能不全家族です。
私自身が40歳を超えてアダルトチルドレンと自覚するまでは、「生きたくない、早く死にたい」と思うような心の問題を抱えていました。
それから7年近く、自分の中の色々な問題が紐解けて、随分と楽に生きられるようになっています。
今回の内容は、その前提があっての話になります。

1.父の余命宣告で感じたこと

父の余命宣告は一か月前にされました。
父と同居の姉から言葉足らずのメールが来て、「告知とは余命のことですか?」と問い返し、その返事を、恐怖を感じながら待っていた記憶があります。

それまで一年近く、治療を諦めて待つだけの時間を過ごしてきたのですが、想像よりも動けている父の姿に、父がいなくなることが、どこか遠い話のように思っていました。

そして私は、父という現実から目をそらして、父始め実家の家族とは、それまで通りに少し距離を置いて過ごしていました。

私と父の関係性を補足すると、子供の頃から父は私に厳しかったです。

二人姉妹のうち、勉強ができないけど人懐っこい姉の方が、優等生だけど(父が言う)可愛げがない私よりも、ずっと父との距離が近かったように思います。

この関係性が、このあとの話で、大きな意味として表れて繋がっていくのですが、余命宣告を知った当時の私は、意識から外れていました。

父は外来診察時に、衰弱が大きいとのことで緩和ケア病棟に入院しました。その際に余命宣告を受けました。

つい一週前の外来診察に付き添ったときには、自分で歩いていたので、余命一か月ということに、半信半疑な気持ちもありました。

入院後は父の体力が少し戻り、元気が戻ったように見えました。
余命の話が、可能性だけの話ではないかと、都合のいい解釈に変えたくなる思いがありました。

2.人は向き合いたくない現実から逃げる

父の余命宣告後に、父と最初の面会を果たした時点で私には

・父の余命一か月の宣告
・緩和治療で少し元気になった父の姿

という一見、相反する二つの条件が揃っていました。

この条件のもと、人はどう感じて、どう行動するか?

おそらく、これは想像ですが。
親と健全な愛着を育んできた人なら、直ぐに容体が悪くならないにしても、
いつまでか分からない残りの時間を、少しでも長く一緒に過ごしたいと思うのではないでしょうか。

少なくとも姉は、私が父と距離を置き続けたこの一年で、一緒に散歩に行ったり、それまで携帯電話を使っていなかった父とメールで一言二言を交わしたりして、父と繋がって過ごす時間を作っていました。

たとえ姉と父の愛着が万全でなかったとしても、姉は父と過ごすことに抵抗なく向き合っていました。

それに比べて私は、余命宣告を聞いてもなお、逃げようとしていました。

「体力が回復しているから、実はまだ先の話ではないか」「コロナ下で病院側に面会時間をセーブするように言われているから」「まだ先があるかもしれないのに、仕事を休んでいられない」「会いに行っても話すことがないから」

と、理屈を並べて、父に会いにいく頻度を計って決めようとしていました。

そして自分の中には「私が行ってもお父さんは特に嬉しくもないから」との前提が常にあった気がします。
そこに私自身が、父とどう過ごしたいかの意思はありません

心理を勉強してきた者として、自分のこの状況が、現実逃避だと想像がつきました。

本当に、もう一か月もないかもしれないのに、逃げている場合じゃない

自分のこの状況を放置するわけにもいかず、私は一緒に心理を学んできた仲間である友人たちを頼りました。
話を聞いてもらいながら、自分の気持ちを探って、自分一人では意識できない本音を引き出すことをしました。

本当の恐怖は、頭で並べた理屈を剥がした奥に閉じ込められています。

自分の中に、父がいなくなる強い恐怖がありました。
父がいなくなることへ、「何故か怖いのか?」の理由は出てこないのですが、ただただ恐怖でした。

3.父との時間

人は、一人では怖くて感じられないほどの強い恐怖や悲しみなどの感情を持っていることがあります。
そういった感情でも、安心できる場所、誰か安心できる人の前では、感じることができたりします

私も友人の前では「父がいなくなる恐怖」を、過呼吸を起こすほどに感じたのですが、一人になると、その怖い感覚がわからなくなりました。

現実逃避が始まるわけです。
しかし本音には「父がいなくなるのが怖い」があるはずです。

とにかく、自分の本音が認識できなくても
今しか父に会う時間はない」と気持ちを固めて、あえて一人で父に会いに行くことを重ねました。

それから一か月と少しの間に、回数にしてたったの5、6回。時間にすれば10時間もなかったと思います。
父と二人で正面から話す時間を、人生で初めて過ごしました。

父は精神的に問題を抱えた人でした。
生涯を通して、うつ病やてんかん発作など、何度も心の病を繰り返しました。
元気な時間と病む時間を、年単位の大きな波のように繰り返す人生を送っているようでした。

私が面会に行った時間でも、うつ傾向のときの「眠れない、怖い、辛い、孤独」と恐怖に執着した話ばかりで、それをただ聞くだけの時間もありました。

でも私は、私自身の気持ちとして、それだけで終わるわけにはいかなかった。

父のためでなく、自分のこれからの人生のために、今できることをしよう。
頭で考えるよりも、その場で言いたいと思ったことをそのまま伝える。
今の父が人の話を聞く力がなくても、父の記憶に残らなくても。

それが、今の状況で、今の私が一番望むことだと思ったと思います。

始めて父に、自分の思いをぶつけました。

最初は「私が(父と)一緒にいたいからいるね」と、父との時間を、私が求めていることを伝えました。
私と父はずっと反発し合ってきたので、父が少し驚いているようにも見えました。

その次の回、次の次とかで、父の話を聞いて受け止める時間が続いて、4回目か5回目のときに、
私の中でネガティブな感情として湧きあがった思いが、不意に言葉となって出ていました。

「辛い辛いって、私の方がずっと辛かったよ」「(父の気持ちを)わかってほしいって、自分は子供の気持ちをわかろうとしたことがあるの?」「お父さんは私の親で、私はお父さんの娘なんだよ」「私は、お父さんが思うほど、いい思いなんてしてきてない」「子供の頃からずっとお母さんの、お父さんへの不平不満を聞く係をやってきたんだよ」

のような、それまで父に対して一切、口にしたことのなかった言葉が一気に出ました。

父はずっと私のことを「恵まれている」と言い、悩みなく生きていると思い込んでいたと思います。
それが、その印象と違う言葉を聞いて、驚いたのかもしれません。

元気なときの父なら、人のネガティブな話を聞き入れることがなかったけど、
このときは、父自身の「怖い」も忘れたように、黙って聞いていました。

4.父が残した言葉

前項の続きにはなりますが、私の思いを聞いたあと、父が残した言葉があります。

「俺は、オマエを疎外してきた。孫(同居する姉の娘)ばかりを可愛がった」

この言葉、あとから冷静になって考えると、もの凄く残酷なことですね。
父から初めて言われたことなのですが、このときの私には「やっぱりね」という納得の気持ちしかありませんでした。

私が父に「自覚があるんだね?」と問い返すと、父は黙って頷きました。詫びるでも何でもなく。

しかしこのときの言葉が、のちに、私自身の心の問題解決に、もの凄く(躍進できる)影響することになったのです。

その次に会いに行った日。帰り道に、私の中には、やり切ったという感覚がありました。

その日の父とのやり取りで、

父が私の顔をジッと見てくるので
私:「どうした?」と聞いて
父:「元気か?」と聞くから
私:「うん。元気だよ」と答えて

と、そのほんの少しのやり取りが、私にとって初めて、
父と優しい気持ちで触れ合った気がしたのです。本当、人生で一度きり。

その帰り道に回想しながら、泣けて泣けて。その日が父と話ができた最後の日でした。

一週間後には父の意識が混濁して、二日と半日後に、母、姉、私、姉の娘、の父が築いた家族全員に見送られて永眠しました。

最期の時間を、何を思い過ごしたのか、父の気持ちは分かることもありませんが。

ただのちに母から聞いた話では、父は私と話したことを覚えていたようで、話した内容を母には教えようとせずに、自分の中で噛みしめているようだったとのことです。
(これ聞いたときにも、泣きましたが)

私は最期の一か月半ほど、自分が逃げずに思いのままやり切れたことに、もの凄く納得しました。


私は、機能不全家族育ちという、幸せではない経験をした人の中でもラッキーだったと言うか、
心の回復に向き合ってきた7年近くがあり、それが実って親と向き合うべき機会を逃さずに済んで、本当によかったと思っています。

もし親との関わりで悩んでいるなら、現実の親と向き合える時間を大切にしてほしい
目をそらしていては、自分の中にある未来に繋がる本当の気持ちを閉じ込めたまま過ぎていってしまう。

もちろん、既に親を亡くされていたり、直接向き合わない方が安全と言えるような親を持つ方もいるでしょう。
だとしても、どんな方法を探してでも、自分の本当の気持ちを救うのを諦めないでほしい

すべての自分の行動は、
自分のために、自分のこれからの人生のために、自分が納得できることを選んでほしいです。

父が亡くなったあと、私の抱えてきた心の問題に、見えてくる真実がありました。
次の記事で話したいと思います。

《心の回復過程の経験談Vol.6》機能不全家族育ちが親を亡くすということ~後からの気づき