責任って誰のもの?~それよりも大事にしたいこと

こんにちは

名古屋で活動中。
心理セラピストの水野まこです。

リトリーブサイコセラピーという心理療法を使って
生き辛さの原因を探り、自分らしさを取り戻すお手伝いをしています。

テレビ番組を見ていて、2月頃の名古屋の街並みが映りました。
二ヶ月前は、新型コロナウィルスの話も、まだどこか遠くの話に感じていたんですね。

最近は、職場と自宅の往復ですから、しばらく行っていなかった名古屋の街が懐かしいです。

名古屋でも、県独自の緊急事態宣言が発令され、
テレビで映される現在の休日の街並みは、以前とは違って、閑散としています。

何も気にせず街を楽しめる日常が、どうか一人でも多くの人に戻ってほしい。

今は頑張って耐えしのいで、もう一度、日常を取り戻していきましょう。

さて、今日、考えてみたいのは「責任」についてです。

最近、新型コロナウィルスに関連して、政治や国への責任や、外出自粛の自己責任など、
SNSやメディアで「責任」の文字をたくさん見ます。
直接関係のない人が、遠くの人の「責任」を語ることがありますよね。

人は、なぜ責任にこだわるのか、人が持ち出す責任問題は本当に必要なことなのか。
人がなぜ「責任」を拠り所にするのか、考えてみたいと思います。

1.そもそも責任は誰のもの?

よくネットニュースのコメントで見かける、責任追及を感じる言葉。

最近疑問に思ったのは、外出自粛願いや要請に対して、
どこまで守るかは「自己責任」との言葉が使われていることでした。

ここでいう「自己責任」とは、自分の行動で自己に及ぶ損害があったとしても、
それは自業自得だよね、といったニュアンスで使われていると思います。

でも、今の新型コロナウィルスの感染リスクに対して、「自己責任」は、何だか違う気がします。

自分の行動で損害を受けた場合に、
損害を受ける対象が、自分だけでは済まない可能性が高いからです。

では「自己」の文字を除いた「責任の問題」かというと、生きて生活している以上、
誰もが感染リスクがある中で、責任という問題には、当てはまらない気がします。

しかし一人の人として、この混乱の状況下で、
自分の行動が、どう自分以外へ影響するのかを考えるのは、モラルの問題
になってくるのだと思います。

ではこの「責任」という言葉、なぜ過剰にとも言えるほど多く使われるのでしょうか。

「責任」の意味を調べると、次の2つが身近に考えられます。

・立場上当然負わなければならない任務や義務
・自分のした事の結果について責めを負うこと

これによると、

自分がしたこと、自分の立場上当然のことは自分に返ってくる

と理解できます。

だから、そもそも自分で負いきれないことに「責任」の言葉を使っても、
「責任」を持っていることにはならないと思うのです。

しかし、人は窮地に陥ると、
なぜか、存在しなかったはずの「責任」を作り出すことがあります。

2.責任回避のために責任を作り出す

窮地になると人は責任を作り出すとは、どういったことか。

私は、この作られた責任に、たいへん苦しんだことがあります。
長い社会人生活の中で、最も濃く記憶に残っています。

ここからは、例え話として、具体的内容に変更を加えてお伝えします。

数十人のプロジェクトの製造業務の現場でのこと、仕事が物作りなので納期があります。

プロジェクトが立ち上がって間もなくして、同僚の一人が、勤務中に倒れて、仕事を離れることになりました。命に関わる重大な出来事でした。

チームを引っ張っていく重要な役割が空いてしまいました。
でも他所から人を入れて、すぐに代わりが務まるものではありません。

元々、工期が厳しいものであったため、急がなければ納期が守れなくなる。
同僚の容態に、とらわれている時間もありませんでした。

私はプロジェクトの中で、数人いる現場責任者の一人でした。
私たちは、翌日から体制・詳細スケジュールの見直しをかけて、納期を守れる見通しを導きました。

すぐに納品先の責任者へ説明をしました。そこでOKを頂き、業務に取りかかりました。

不要な「責任」に苦しんだのは、この後です。

私たち現場も、納品先の責任者も、OKを出したはずなのに、
この2つの担当間にあって、進捗・品質管理をする担当から「待った」が、かかったのです。

・納品先責任者から説明を受けたが、本当に問題なく完了できるか信用できない
もっと詳細な根拠を説明してほしい

このような要望でした。

実は、納品先の担当も、この管理担当も、私たち現場担当も、所属は違えども、
目と鼻の先で、協働者として蜜に連携を取って、一つの仕事を進めています
そして私たち現場担当が、組織上の一番下のポジションになります。

つまり、現場の失敗=プロジェクトの失敗、になるのです。

万が一、現場担当が納期を守れなかったら、納品物の品質に問題があったら、
その問題を外部の審査部門へ説明するのが、この中間の管理担当でした。

 審査部門へ納得させる説明をしなくてはいけない。
 本当に遅れなどの問題が発生したら、説明がつかない。
 きちんと管理していることを、示さなくてはいけない。

と考えていたのでしょう。

仕事は確かに、曖昧で済まされないものがあります。

ですがこの件は、持ち出さなくてもいい責任意識により
このあと、私たち現場が苦しむ方向へ進んでいきます

私たち現場担当は、
チームの重要人物を欠き、これから更に大変になっていく状況下で、
管理担当から厳しい要求を受けるようになっていきました

詳細な根拠資料を作成するのに、結構な時間を要しました。
一度提出後も、何度も追加の要求があり、
その都度、資料を修正して説明を行う、といったことを繰り返します。

最初の要求である根拠資料のOKも貰えないうちに、
今度は、まだ先の工程の詳細も、先駆けて求められるようになりました。
管理担当からの要求は、ヒートアップしていきました

要求に応じているだけで時間が過ぎ、現場の指導もままならない。

「今は勘弁してほしい」との要望を口にすると、
説明する責任が、そちらにはある」と返され、相手側との溝は広がっていきました。

そして実際に、当初見直したスケジュールから遅れが出てきました。

二ヶ月ほど経ってようやく、管理担当から
「そちらの本来の作業が進まなくなるから、これ以上はやめておきます
突如として要求は終わったのです。

う~ん。もう、かなり苦しかったですね。(例え話ですがね (^^;) )

同僚が倒れたショックを癒やす間もないまま、
不安定になった現場の指導と、組織上の上位担当からの要求に対応する。
仕事が一段落ついたのは半年後で、そこまで振り返っている暇は、ありませんでした。

組織で働くことは、守ってもらえる間は、安心なんですが、
危機が訪れると一点に負担が集中したりと、一長一短なんですよね。

そこで、ここです。

「やめておこう」で、やめられるものを、なぜ要求するのか!!

そこに心理の問題があります

3.責任よりも大事なこと

この件で、一番衝撃だったのは、管理担当と私たち現場の関係性の変化です。

それ以前までは、組織全体で協力体制にあったにも関わらず、
人の命が関わったことが起因で、大きなプロジェクトの成功が危ぶまれるといった局面を堺に、
敵対視するような立場になりました。

本来、組織全体が、一つの仕事を完成させる方向へ協力すれば、全体の業務もスムーズに進みます。

ですが、このとき管理担当の人たちの中で起こっていたのは、

プロジェクトが失敗した場合に向けて、
自分たちは、きちんとやっていた、責任は現場側にある、と、
必要になっていない責任を作り出して、自分たちの責任を回避する準備をしていた
と感じます。

仕事の成功よりも、自分たちのところに、責任が来ないこと
それを、無意識に優先していたのでは、ないでしょうか。

冷静に考えれば、組織全体で考えたとき、
内部で分裂していて、事が上手く運ぶはずがありません。

全体で協力するから、大きなことも、成していけるのです。

そして、人は不安があるから、責任回避の行動をとります
自分のしていることを正当化して、人を追い詰めることで、自分の不安を解消しようとするのです。

あれっ?
これは、今の世の中で、責任追及するパターンと似ていませんか?

人へ責任の言葉を投げつけ、人を叩く。きっと、不安なんですよね。
(きっとこの記事を読むような心理に興味がある人は少ないと思いますが)

でも今の状況は、不安で当然です。
今、不安を抑圧して、怖くない!と、自粛に協力しない方が、とても問題です。

ただ、責任の押しつけ合いで分裂するよりも、

同じ不安を共有して、どうしたらいいか考えること。
みんなで協力し合っていくこと。

その方が、絶対に、大きな成果に繋がります。

今、本当に、すぐそこまで、自分と周りの人の命の危機が迫っています。
今は、大げさに考えても、まったく無駄では、ありません。

自分が感じる不安をキャッチして、危機管理をすることが大事です。

今、一番、大切にするものは何か
一人ひとりが考えて

人として生きている人生を、大切にしていきましょう。

今日は、ここまでです。

ありがとうございました(^^)/

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